2010年8月18日水曜日

「武士道」の概念と日本の戦争責任~韓国のある新聞コラムを読んで思うこと

自分は「フレッシュアイ」とうニュース・キーワードサービスに登録していて、「英語教育」 「異文化理解」 「ICU」など自分の興味あるキーワードが入っているネット上のニュースが自動的にメールで配信されるようにしている。興味ある研究分野やニュース分野があるみなさんには是非お薦め。

さて、時々、どうしてこのニュースが配信された??と不思議に思う記事が来る時もある。以下の「武士道」に関する韓国の中央日報の日本語版の記事が一例だ。特に自分が登録したキーワードは見たらないのだが。。。

しかし内容は興味深い。異文化理解の面から見て、この記事とそれに対する読者コメントが非常に興味深い。日本と韓国の歴史認識の違いの根源を示している部分があるように思えるし、どうしてこのように「武士道」の捉え方が違うのか考えるのは価値があるプロセスだと思う。記事の内容も、読者のコメントも対立する感情にあふれているのだが、その感情の中からどのように歩み寄りや相互理解ができるのか、機会があったら学生と考えてみてもいいなと思った。秋のARWの授業に関連しているので、ちょっと思いを書いてみたくなった。

さて、内容は新聞の意見コラムで、もともと韓国語で書かれ、日本語訳がネットの日本語版に出たらしい。

日本語訳版: リンク
韓国語原文: リンク

作者が言いたいことはどうも2つあるようだ。抜粋すると:

1)「武士道は歴史的事実を根拠とする実体ではない。 神話や象徴操作に近い。 ひどく言えば‘はったり’ともいえる。」 (注:記事の中の「武士道」の定義は新渡戸稲造が1899年に米国で英語で出版した本『BUSHIDO:The Soul of Japan』の中に書かれた精神とのことである。その内容はでっちあげの部分が多いと言いたいらしい。)

2)「武士道を崇敬していた日本軍国主義の蛮行を見れば、武士道が虚構だったことがよく表れている。 今の保守右翼も同じだ。 侵略戦争に対する反省と謝罪を惜しむ人たちのどこに武士道の風貌を見ることができるのか。 元々なかっただけに見えないのだ。」

要するに、侵略戦争の実態やそれに対する謝罪を日本の保守的な政治家が惜しむことを見る限り、日本には所謂「武士道」の「義」 (justice/fair play) の精神が足りない、そして元々日本の伝統文化に武士道の「義」の観念が根付いていたかどうかを疑しい、と言いたいようだ。

これは日本の読者が怒るのは当然。歴史的にどうであろうと、現代の日本人の多くは「武士道」を大切な文化だと思っている。どんな国の人でも、自分の国の伝統文化や道徳観が正義の心を欠いていると示唆されたら気分を悪くする。そういう意味で、言っていることが一部又は全て本当かどうかを差し置いて、まず二国間の関係を前進させる上で建設的な文章とは言えない。

ただ、韓国語で韓国の読者のために書かれたものなので、それを考慮する必要はある。戦争責任の認識について、もしこの内容が韓国の市民が一般的に思っていることを強く代表しているとしたら、そのような感情を日本人が知って、今後の対話の参考にするための上では価値があるかも知れない。

しかし、それにしても、第三者(一応アメリカ人なので)から見て、あまりに強引過ぎる文章と論調であるのは確かだ。日本の保守派が戦争責任の謝罪を渋っていることが気に入らないなら、もってストレートにそれを書くべきであろう。日本の武士道に「義」の精神があったのかどうかという議論を巻き込まなくても良さそうなものだ。

では、事実関係はどうなのか。

先ず、武士道という言葉の根源は?そして歴史的なその実態は?現代における存在感は?
Wikipediaをさっと読んだだけでは理解できなさそうだが、「義」のある武士の精神を新渡戸がでっちあげたというのも正確ではない気がする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
http://en.wikipedia.org/wiki/Bushido
BUSHIDO:The Soul of Japan

武士道の歴史は専門外なので、あまり大きいことは言わないが、最後に言いたいのは、歴史に対する反省は大切であり、中央日報の記事の筆者が指摘しているように「侵略を反省しているのではなく、敗戦を反省している」ような間違った歴史認識を持っている日本人がいるのは事実である。そして日本における侵略の歴史の教育や反省は被害者の韓国や中国から見て(そして私の理解が正しければドイツなどに比べ)足りないのも事実である。親や兄弟を殺された家族のように、被害者にとってはいつまでも、どのように謝罪されても足りない部分もあるのであろうが、加害者の日本はまだ謙虚な努力と持続的な反省が必要であると思う。これはアメリカでもどの国でも同じである。国としての過去の過ちを認めて毎年反省・謝罪することは国際的な平和と協調に貢献する風土を養う上で大切である。

しかし、同時に、韓国や中国側にも平和と協調への責任感は必用である。この記事を見る限り、建設的に日本側の戦争に関する教育や反省を求めようとしているとは思えない。加害者側に反省して謝罪する責任があるのと同時に、被害者側にも建設的に理解を求め、関係を先に進める努力は必要だと思える。この記事はその努力を怠っているのではないだろうか。

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